
※本稿は本編考察『Stranger's Sunを考える(改)』の姉妹記事です。本編はカミュ『異邦人』を軸にした西洋側の読解、本稿は日本神話を軸にした東洋側の読解になります。未読の方はぜひ本編からご覧ください。
はじめに——1件のコメントから
いつも当ブログをご覧いただきありがとうございます。
本編の考察を書き終えたあと、MVのコメント欄で、ある一言に目が留まりました。きっかけをくださった方に心より感謝申し上げます。
そのコメントは、「みかの衣装が天照大御神のようだ」という趣旨の指摘でした。

天照大御神——日本神話の、太陽の女神です。『Stranger's Sun』、太陽と冠されたこの曲で、確かにみかは太陽神のような衣装を纏っています。
ただ、この時点で私は一つ、引っかかっていることがありました。
みかは、太陽神なのだろうか。
この曲で彼らが歌っているのは、太陽に照らされ、乱反射する光になることです。千年先へ光を届けることです。
それは太陽そのものの歌ではなく、太陽の光を受け取る者の歌でしょう。太陽神を模した衣装を纏って「太陽を刮目せよ」と歌うのは、どこかねじれています。
それは太陽そのものの歌ではなく、太陽の光を受け取る者の歌でしょう。太陽神を模した衣装を纏って「太陽を刮目せよ」と歌うのは、どこかねじれています。
結論から言うと、この引っかかりが正解への入口でした。
みかは天照大御神ではありません。天照大御神を映す「鏡」です。
そしてもう一人。この曲で彼と向かい合う位置に立っている、両目に太陽を宿した少年がいます。
本編考察の最後で、私は宗とジュイス——両ユニットのリーダー二人の激突について書きました。本稿で追いかけるのは、もう一組です。
影片みかと、久遠舞珠。鏡と、太陽。
【要約】この記事が辿り着く、3つの結論
日本神話には、隠れた太陽を呼び戻すための儀式があります。要るものは舞・歓声・鏡・勾玉の四つ。——その四つが、あの舞台に揃っています。
-
① 影片みかは、太陽ではない。
太陽を映し、太陽を生むための「鏡」。左右が反転したオッドアイは、欠陥ではなく、彼が鏡であることの証明。 -
② 斎宮宗は、神を降りた。
斎宮——もう一つの読みは「いつきのみや」。
鏡を祀れという命令そのものの名。神を自称した男が、名前の通りに生きる者になるまでの三幕。 -
③ 久遠舞珠に足りないのは、「鏡」だけ。
彼の名は太陽を呼び戻す儀式の道具でできている——舞と珠。そこに鏡だけがありません。傷つき隠れた太陽を引き出せるのは、その鏡です。
長い記事なので、興味のあるところだけつまみ読みしていただいても大丈夫です。
ATTENTION ※この記事は本編同様、キャラクターの過去(旧Valkyrieの崩壊、義眼説などの独自解釈)に触れます。また、神話の解釈・キャラクターへの当てはめはすべて当ブログの幻覚です。公式設定として意図されているかは一切不明です。その上で、符合の美しさを楽しんでいただければ幸いです。
太陽を呼び戻す儀式——天岩戸
まず、日本神話で最も有名な逸話からお話しさせてください。この記事は最後まで、この一つの場面に向かって進みます。
弟である須佐之男命があまりに乱暴を働いたため、太陽の女神・天照大御神(あまてらすおおみかみ)は怒り、傷つき、天岩戸(あまのいわと)という岩屋に引きこもってしまいます。
太陽が隠れたのですから、世界は真っ暗になりました。作物は育たず、災いが満ち、神々は困り果てます。
さて、神々はどうやって太陽を外に出したか。
力づくで岩戸をこじ開けたのではありません。彼らが用意したのは、祭りでした。

一つ、舞。
天鈿女命(あめのうずめのみこと)という女神が、岩戸の前で踊ります。優雅な神楽ではありません。伏せた桶の上に乗って踏み鳴らす、騒々しくて滑稽な踊りでした。
二つ、歓声。
その舞を囃し立てて、神々は大笑いします。原文で言えば「哄笑」。神聖な静寂ではなく、爆笑と喝采です。
三つ、鏡と勾玉。
榊(さかき)の木に、八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)が飾られました。
外があまりに楽しそうなので、天照は不思議に思い、岩戸を細く開けます。そこで神々は「あなたより貴い神がおいでになった」と告げ、鏡を差し出しました。
覗き込んだ彼女が身を乗り出した瞬間、腕を引かれ、太陽は岩戸の外へ引き出されたのです。
覗き込んだ彼女が身を乗り出した瞬間、腕を引かれ、太陽は岩戸の外へ引き出されたのです。
舞。歓声。鏡。勾玉。
隠れた太陽を連れ戻すのに要るものは、この四つでした。
……そして私たちは、この四つをあの舞台で見ています。
なぜ鏡だったのか。その答えは、この記事の最後に置きます。
日本神話の「鏡」は、ただの鏡ではない
鏡を見せられた太陽が、なぜ出てきてしまうのか。日本神話の鏡は、光を返すだけの板ではありません。
ご存じの方は、この節の最後の要点3行だけ拾って次へ進んでもらって大丈夫です!
ご存じの方は、この節の最後の要点3行だけ拾って次へ進んでもらって大丈夫です!
鏡は、天照大御神そのものである
神話の後半に、天孫降臨(てんそんこうりん)という場面があります。天照大御神が、孫にあたる神を地上へ送り出す——皇室の起源を語るシーンです。
このとき彼女は、岩戸の前に飾られたあの八咫鏡(やたのかがみ)を授けて、こう告げました。
この鏡を見ることは、私を見ることと同じだと思いなさい。同じ殿に安置し、斎(いわい)の鏡として祀りなさい。
古事記にも同じ趣旨の言葉があります。
この鏡はもっぱら私の御魂(みたま)として、私を拝むのと同じように、いつき奉れ。
鏡は、天照大御神の「似姿」ではありません。天照大御神の「本体」です。
これは比喩ではなく、神道の教義として現在まで生きています。伊勢神宮の内宮に祀られている御神体は、まさにこの鏡です。
日本中の神社の本殿に鏡が据えられているのも、この故事に由来します。
日本中の神社の本殿に鏡が据えられているのも、この故事に由来します。
そして、ここで冒頭の疑問が解けます。
「みかの衣装が天照大御神のようだ」——この直感は、正しいのです。
ただし彼が太陽神だからではありません。彼が鏡だからです。
太陽を映した鏡は、太陽と見分けがつきません。だから彼は、天照に見えてしまう。
(なお、神勅の「いつき奉れ」という言葉——「いつく」とは、身を清めて神に仕えることです。この動詞は、後ほどもう一度出てきます)
太陽は、目から生まれた
もう一つ。そもそも太陽が、どこから生まれたかという話です。
イザナギとイザナミという夫婦の神がいました。イザナミは火の神を産んだ際の火傷で命を落とし、死者の国——黄泉国(よみのくに)へ下ってしまいます。
妻を取り戻しに行ったイザナギは、変わり果てた姿を見て、命からがら地上へ逃げ帰りました。
妻を取り戻しに行ったイザナギは、変わり果てた姿を見て、命からがら地上へ逃げ帰りました。
死の国から帰還した彼は、穢れを洗い落とすため川で身を清めます。これを禊(みそぎ)といいます。そしてこの禊の最後に、三柱の尊い神が生まれました。
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左目を洗ったとき——太陽の女神、天照大御神
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右目を洗ったとき——月の神、月読命(つくよみのみこと)
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鼻を洗ったとき——嵐の神、須佐之男命
日本神話の太陽は、死をくぐり抜けた先に生まれています。
死の国から帰り、穢れを洗い落とした果てに、ようやく光が生まれる。
死の国から帰り、穢れを洗い落とした果てに、ようやく光が生まれる。
一度「殺され」、墓底から蘇った二人組の物語として、これはあまりに示唆的でしょう。
彼らの光は、死を通り抜けた後にしか生まれ得なかった——そう読める土台が、神話の最初期に既に敷かれています。
彼らの光は、死を通り抜けた後にしか生まれ得なかった——そう読める土台が、神話の最初期に既に敷かれています。
太陽は、鏡からも生まれた
さらに、です。
『日本書紀』には、この三柱の誕生についてまったく別の異伝が載っています(第五段 一書第一)。
ここではイザナギが単独で神を生むのですが、その方法が異様です。
ここではイザナギが単独で神を生むのですが、その方法が異様です。
-
左手に白銅鏡(まそかがみ)を持った。すると、そこから太陽の女神が現れた。
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右手に白銅鏡を持った。すると、そこから月の神が現れた。
目ではなく、鏡から。この異伝において、太陽と月を生んだのは、鏡なのです。
この節の要点
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鏡は天照の似姿ではなく、天照そのものである
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日本神話の太陽は、死をくぐり抜けた先に生まれた
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日月を宿す器は、目であり、そして鏡である
鏡像反転の眼——影片みかは、なぜ左右が逆なのか
謎① みかのオッドアイは、なぜ日本神話の太陽と月の配置と「完全に逆」なのか?
さて、ここからが本題です。
影片みかの瞳は、右目が黄色、左目が青のオッドアイです。

神話の配置を思い出してください。左から太陽、右から月。
禊のバージョンでは左目から太陽が、右目から月が。
鏡のバージョンでは左手の鏡から太陽が、右手の鏡から月が生まれました。
禊のバージョンでは左目から太陽が、右目から月が。
鏡のバージョンでは左手の鏡から太陽が、右手の鏡から月が生まれました。
しかし、みかの瞳の配置は————
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左目——夜と水の色、青。ここでは月を表します。
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右目——太陽の色、黄。
完全に、左右が入れ替わっています。
そして、鏡は左右を反転させる。
みかの眼は、神話の配置を間違えているのではありません。
映しているのです。
日月を宿した神(イザナギ)そのものではなく、その顔を映した鏡の側。
映しているのです。
日月を宿した神(イザナギ)そのものではなく、その顔を映した鏡の側。
左右が逆であることは、矛盾ではなく、彼が鏡であることの物理的な証明だったのです。
そして先ほどの異伝を、もう一度思い出してください。太陽と月は、鏡から生まれた。日本神話において鏡とは、太陽を生む器なのです。
天体が逆さまに嵌め込まれた眼。かつて彼が憂え、いびつだと思い、隠したがった不揃いな眼。
それは欠陥ではなく——太陽を映し、太陽を生むための、聖なる面だったのではないでしょうか。
そしてもう一つ。かねて指摘されていることですが——
「みか」を逆から読むと、「かみ」。
「みか」を逆から読むと、「かみ」。
彼自身は神ではありません。けれど、反転させると神になる。
鏡とは、そういうものです。
みかが纏っているもの——名前を消された祭服
謎② なぜこの祭服は、十字架と勾玉を同じ胸元に載せているのか?
どの神殿にも属さない祭服
彼が鏡であるなら、その身なりにも何かが出ているはずです。
ここで、きっかけとなった衣装の話に戻ります。
まず正直に申し上げると、この衣装の第一言語は西洋の祭服です。胸元の大きな十字架、身体の中心を縦に走る装飾帯(司祭が纏うカズラの縦帯を思わせます)、幾重にも垂れる真珠の連なり(ロザリオのようでもあります)。
「天照大御神の衣装」と呼ぶには、あまりに教会の語彙が強い。
「天照大御神の衣装」と呼ぶには、あまりに教会の語彙が強い。
しかし、仔細に見ると、それだけではないのです。

- 肩から広がる、あの直線的な大袖。
西洋の祭服の袖はもっと絞られるか垂直に落ちるのが普通で、あの水平方向への広がりは、狩衣や十二単といった和装の平面裁断の特徴を持っています。

- 真珠の連なりに混じって下がる、緑灰色の雫型の飾り。
形の分類としては勾玉(まがたま)——榊の木に掛けられた、あの八尺瓊勾玉に連なる意匠——として読める形です。

- 額を横切る垂飾付きの飾り。
宝冠から鎖と雫が下がるあの構造は、仏像や東洋の天冠の垂飾のようです。
十字架と勾玉が、同じ胸元に同居している。
これは純粋な「和風の衣装」でも「教会の衣装」でもありません。仕える神の名前が、意図的に消された祭服です。
どの神殿にも属さず、しかし確かに、「何か」に仕える者の装い。
どの神殿にも属さず、しかし確かに、「何か」に仕える者の装い。
(衣装そのものの読解については、別記事『Valkyrie×MDU 衣装に隠された意味』でも触れていますので、あわせてご覧ください。)
そしてもう一つ。衣装には無数の星が刺繍されています。
金の八芒星、紅の四芒星。
金の八芒星、紅の四芒星。
宗が一番で歌う言葉に、幾星霜(いくせいそう)——星の巡りで数えるほどの長い歳月——があります。
衣装に散った無数の星は、この語彙とそのまま重なります。
衣装に散った無数の星は、この語彙とそのまま重なります。
星は、無数にある。
けれど、太陽は一つ。
けれど、太陽は一つ。
——衣装が、既にリフレインを着ているのです。
ジャケットに描かれたもの、描かれなかったもの
ここで、今回の楽曲のデジタルジャケット画像に目を向けてみたいと思います。

上部、つまりValkyrie側に配置されている宝石。
これらは単なる飾りの羅列ではなく、MVの中で彼らが身につけていた装飾そのものです。
これらは単なる飾りの羅列ではなく、MVの中で彼らが身につけていた装飾そのものです。
まず、青い宝石。
これはみかの額を飾る垂飾で、真珠の連なりから下がる雫型の——勾玉として読める意匠です。
これはみかの額を飾る垂飾で、真珠の連なりから下がる雫型の——勾玉として読める意匠です。
儀式の道具の一つが、彼の額に下がっている。
では、鏡はどうでしょうか。
ジャケットにも衣装にも、鏡を模した意匠は見当たりません。
しかし、それは当然のことかもしれません。
御神体を、装飾品として胸に提げることはできません。
しかし、それは当然のことかもしれません。
御神体を、装飾品として胸に提げることはできません。
そして『Stranger's Sun』において、Valkyrieのセンターに置かれているのは、宗ではなくみかです。
鏡は、飾りではなく、中心に据えられていました。
神社の本殿の、最も奥に鏡が安置されているように。
もう一人の太陽——両目に日を宿す少年
次に、太陽を映し、太陽を生むための、聖なる面をもつみかの、向かい側に立つ人物に注目していきましょう。
久遠舞珠の瞳は、両目とも黄色です。両の眼に、太陽の色。

反転もなく、月もなく、ただ二つの太陽。
鏡ではなく、太陽そのものとして立っている少年です。
本編考察で「光の中で真っ直ぐに上を見上げていた」と書いたあの姿は、太陽が太陽を見上げている図だったことになります。
鏡ではなく、太陽そのものとして立っている少年です。
本編考察で「光の中で真っ直ぐに上を見上げていた」と書いたあの姿は、太陽が太陽を見上げている図だったことになります。
ただし——当ブログの番外編考察をお読みの方はご記憶と思いますが——私は彼の片目が幼少期の事故による義眼である可能性を考察しました。
もしそうだとしたら。
彼の両眼に輝く二つの太陽のうち、片方は、偽物です。
そして観客には、どちらが本物でどちらが硝子か、決して見分けられない。
そして観客には、どちらが本物でどちらが硝子か、決して見分けられない。
……これは、本編考察で書いた彼の在り方——完璧に演じ切られた輝きと、素の輝きの区別がつかない「完璧な虚像」——と、寸分違わず同じ構造です。
彼は面の上に、既にそれを掲げていたのです。
彼は面の上に、既にそれを掲げていたのです。
「久遠舞珠」という名前に隠された意味
久遠(くおん)。仏教語で、時間的に遠い過去、あるいは遠い未来——つまり永遠を指す言葉です。
本編考察で立てた軸を思い出してください。
永遠のValkyrie、刹那のMDU。
永遠のValkyrie、刹那のMDU。
その刹那の側に、「永遠」という名の男が立っています。
しかも、です。
この曲でこう歌い上げているのは、他でもない彼自身でした。
この曲でこう歌い上げているのは、他でもない彼自身でした。
永遠なんて今に価値を生みやしないさ
「久遠」という名を持つ男が、永遠には価値がないと歌っている。
自分の名前を否定する言葉を、好戦的ともとれる瞳の輝きと、満ち足りた表情で歌い上げる。
……「完璧な虚像」とは、こういうことなのかもしれません。
……「完璧な虚像」とは、こういうことなのかもしれません。
彼の名前については、この記事の最後にもう一度だけ触れます。
鏡を祀る者——「斎宮」という名の預言
鏡(みか)と、太陽(舞珠)。役者は揃いました。
けれど、日本の太陽神話には、もう一つの役があります。
鏡を祀る者です。
鏡を祀る者です。
そして実は、冒頭でご紹介したコメントには、続きがありました。
「天照大御神に仕えた人は『斎王』といって『斎宮』という住まいに住んでいた」
天照大御神は、皇室の祖先神として、三重県の伊勢神宮に祀られています。
そして古代から中世まで、およそ660年間にわたり、この天照大御神に天皇の代わりに仕えるための特別な女性が、代々選ばれ続けていました。
そして古代から中世まで、およそ660年間にわたり、この天照大御神に天皇の代わりに仕えるための特別な女性が、代々選ばれ続けていました。
それが斎王(さいおう)です。
斎王に選ばれるのは、未婚の皇女(内親王・女王)。天皇が代替わりするたびに、占い(卜定・ぼくじょう)によって選ばれます。
つまり、本人の意志は問われません。選ばれた皇女は都を離れ、家族と別れ、恋愛を禁じられ、伊勢の地でひたすら神に祈りを捧げる日々を送ることになります。
つまり、本人の意志は問われません。選ばれた皇女は都を離れ、家族と別れ、恋愛を禁じられ、伊勢の地でひたすら神に祈りを捧げる日々を送ることになります。
斎王の正式な役割を表す言葉に、御杖代(みつえしろ)というものがあります。
「神の杖の代わりとなる者」——つまり、天皇が神に仕えるための身代わりの器、という意味です。
「神の杖の代わりとなる者」——つまり、天皇が神に仕えるための身代わりの器、という意味です。
そして、その斎王が暮らした宮殿・御所の名であり、後世には彼女たち自身を指す呼び名ともなった言葉が——斎宮(さいくう)です。
斎宮は伊勢神宮の近くにありますが、神宮の中ではありません。神宮から15kmほど離れた場所に置かれ、斎王が実際に神前へ赴くのは、年にわずか三度だけだったと伝えられています。
太陽神に一生を捧げながら、太陽神から隔てられた場所で暮らす。
神に最も近い身でありながら、神殿の中には住めない。
神に最も近い身でありながら、神殿の中には住めない。
これが「斎宮」という言葉が背負っている歴史です。
……斎宮。
そう、斎宮宗の、斎宮です。
そして、鏡の節で触れた、あの動詞。
古事記の神勅——「いつき奉れ」。
斎宮の、もう一つの読みは——いつきのみや。
鏡を祀れという命令の動詞が、そのまま彼の姓になっています。
もちろん、キャラクターの姓が実在の言葉と同じであること自体は、珍しくもなんともありません。これだけなら「へえ、そうなんだ」で終わる話です。
しかし『Stranger's Sun』——異邦人の太陽と冠された楽曲で、彼が何を歌っているかを思い出してください。
刮目せよ 絶え間なく燃ゆる太陽
太陽から目を逸らすな、と命じるのです。そしてValkyrieは、太陽に照らされ、乱反射する光になると歌う。
太陽神に仕える者の名を持つ男が、太陽を見据えろと歌い、その光を浴びて輝いている。
……名前が、十年越しに、その意味に追いついた瞬間です。
神を名乗った男の、三幕の物語
「いやいや、ちょっと待って!」と思われた方もいるはずです。
斎宮宗といえば、あの名乗りではないか、と。
「僕は夢ノ咲学院の帝王、斎宮宗!万物を創造し、すべてを糸で操るこの世界の神だ!」

そうです。彼は、神に仕える者の名を持ちながら、自らを神と名乗った男でした。
これは矛盾でしょうか。私は、そうは思いません。
この名乗りがいつの台詞だったかを確かめると、むしろここにこそ、彼の物語の全てが折り畳まれていることが分かります。
この名乗りがいつの台詞だったかを確かめると、むしろここにこそ、彼の物語の全てが折り畳まれていることが分かります。
まず、彼が本当に頂点にいた時代があります。
旧Valkyrie——宗と、影片みかと、そして今はRa*bitsにいる仁兎なずな。
三人で組んでいたあのユニットは、わずかな狂いもないパフォーマンスで、腐敗した夢ノ咲学院の頂点に君臨していました。
三人で組んでいたあのユニットは、わずかな狂いもないパフォーマンスで、腐敗した夢ノ咲学院の頂点に君臨していました。
そして、王国は焼き払われます。
天祥院英智の革命の前に、彼の舞台は壊されました。
腐敗した頂点を引きずり下ろせと望む、学院じゅうの熱狂とともに。
宗の精神は限界を超え、まともなユニット活動ができなくなる。やがて、なずなも去っていきます。
腐敗した頂点を引きずり下ろせと望む、学院じゅうの熱狂とともに。
宗の精神は限界を超え、まともなユニット活動ができなくなる。やがて、なずなも去っていきます。
玉座は失われ、仲間は去り、残ったのは認めることのできない敗北だけ。
彼は地下のライブハウスへ潜り、光を遠ざけて生きるようになりました。
彼は地下のライブハウスへ潜り、光を遠ざけて生きるようになりました。
あの名乗りは、その後の台詞です。
玉座を失い、地下に籠もった男が、なお「僕はこの世界の神だ」と名乗っていた。しかも、あの台詞にはこんな続きがあります。
「どうも君たちは馬鹿だから、それを忘れてしまったようだけれど! 停止していた人形劇を再び始めよう、華麗に!」
停止していた人形劇。
自分の劇が一度止まったことを、彼は知っているのです。知った上で、なお「神」を名乗っている。
つまりあれは、全能の宣言ではなく——既に殺された者の、否認の叫びだったのです。
そして、彼は再び地上へ引きずり出されます。
七夕祭。長らく地下に籠もっていたValkyrieが、久方ぶりに大きな舞台へ引き出された夜。結果は敗北でした。
けれどのちに彼は、鳩山会館で開かれたValkyrie衣装展で、当時の衣装を前にこう振り返っています。
「あの出来事は強引な目覚めだった。蛹を無理やり叩き起こし、蝶となって羽ばたくか、それとも地面に落ちてそのまま朽ちるか。そんな選択を迫られたようなものだったのだ」「地上に出てみれば、頭上では星が瞬いていた。空はどこまでも広がっていた。……世界は僕が思っていたより複雑で、そして、美しかったのだよ」
神を名乗っていた男が、初めて、自分より大きなものを見上げた瞬間です。
第一幕:僭称(驕った自称)。
太陽神の侍者の名を背負いながら、その名に逆らい、自らを神の座に置いた。
太陽神の侍者の名を背負いながら、その名に逆らい、自らを神の座に置いた。
第二幕:転落。
大衆の熱狂という太陽に灼かれ、墜ちた。
玉座を失い、地下へ。それでもなお神を名乗り続けた——否認の時。
大衆の熱狂という太陽に灼かれ、墜ちた。
玉座を失い、地下へ。それでもなお神を名乗り続けた——否認の時。
第三幕:奉仕。
強引に地上へ引きずり出され、見上げた空に星があった。
そして現在。
彼は「私が太陽だ」とは歌いません。太陽を見上げ、刮目せよと歌い、降り注ぐ光を浴びて乱反射する側に立っています。
強引に地上へ引きずり出され、見上げた空に星があった。
そして現在。
彼は「私が太陽だ」とは歌いません。太陽を見上げ、刮目せよと歌い、降り注ぐ光を浴びて乱反射する側に立っています。
神を降りた男は、無力になったのではありません。
「斎宮」の名の通りに生きる者になったのです。
「斎宮」の名の通りに生きる者になったのです。
逆方向から降りてきた二人
この三幕を踏まえると、隣に立つ少年みかの物語が、対になって浮かび上がります。
影片みかは、かつて自らを「お師さんの人形」と呼んでいました。
先ほどの御杖代を思い出してください。神に仕えるための「代わりの器」です。そして神道には、人の形をした紙や木で穢れや役割を引き受けさせる形代(かたしろ)・依代(よりしろ)、という考え方があります。人形(ひとがた)とは、本来、誰かの身代わりになるための器なのです。
天照大御神に仕える「代」——斎宮。
その斎宮(を名乗る神)に仕える「代」——人形、みか。
その斎宮(を名乗る神)に仕える「代」——人形、みか。
神を僭称する男の王国で、みかは依代の依代として生きていた。
しかしご存じの通り、みかはValkyrieとしての歩みの中で、人間としての不完全さを受け入れて、血の通った一人のアーティストになりました。人形から、人間へ。
一方の宗は、神から、仕える者へ。
二人は正反対の方向から階段を降りてきて、いま同じ舞台に立っています。そして御神体となった弟子の隣で、師は、鏡を祀る者の名を名乗っている。

舞台の上で再演されていたもの
謎③ 久遠舞珠という名前に隠された、「たった一つの欠落」とは?
かなり長くなりましたが、ようやく鏡(みか)、太陽(舞珠)、そして鏡を祀る者(宗)、全ての役者が揃いました。
ここで、最初の節に戻ります。
隠れた太陽を呼び戻すために必要なものは、舞と、歓声と、鏡と勾玉。
これは『Stranger's Sun』の構成そのものです。
MDU——舞と歓声。
熱狂が火を灯し、歓声こそ人生だと歌う彼ら。
そして何より、こう歌い切る彼ら——道化としても構やしないさ。
熱狂が火を灯し、歓声こそ人生だと歌う彼ら。
そして何より、こう歌い切る彼ら——道化としても構やしないさ。
思い出してください。天岩戸で太陽を引き出したのは、神々の笑いでした。ウズメは笑いを取るために、無作法に踊ったのです。道化こそが、太陽を連れ戻す祭祀の執行者だった。
Valkyrie——鏡と勾玉。
額に勾玉を垂らし、光を分光するプリズムを胸に掲げ、そしてその中心に、鏡そのものである少年を置いている。
額に勾玉を垂らし、光を分光するプリズムを胸に掲げ、そしてその中心に、鏡そのものである少年を置いている。
さらに言えば、サビの振り付けです。静的で、人形的で、ゴシックな造形を美学としてきたValkyrieが、ここではHIPHOPのステップを踏んでいます。およそ彼ららしくない、と言っていい振り付けです。

洗練ではなく、踏み鳴らし。
美意識の権化であるあの人形師が、ウズメの無作法な足踏みを踊っている。
そして、その舞を踊った天鈿女命は現在、芸能の神として祀られています。日本のあらゆる芸能の始祖とされる女神です。
アイドルのValkyrieとMDUが魅せる『Stranger's Sun』の舞台と、重なって見えないでしょうか……?
鏡に映った太陽は「見知らぬ」光
最初の節で、答えを最後に置くと申し上げた問いがあります。神々はなぜ、鏡を差し出したのか。
差し出された鏡を覗き込んだ天照は、そこに映る輝きに見入り、もっとよく見ようと身を乗り出しました。
鏡に映っていたのは、天照自身の顔でした。
そして彼女は、それを自分だと分からなかったのです。
そして彼女は、それを自分だと分からなかったのです。
太陽神が、鏡に映った自分の光を、見知らぬ他者の光だと信じた。あまりに美しく、あまりに縁遠く、自分のものとは思えない太陽として。
——鏡に映った太陽の名前を、何と呼べばいいでしょうか。
Stranger's Sun(見知らぬ太陽).
異邦の太陽とは、他人の太陽のことではありません。
鏡越しに見た、自分自身の太陽のことです。
そして人は、その見知らぬ太陽に見惚れた瞬間に、閉じこもっていた岩戸から一歩、外へ出る。
鏡越しに見た、自分自身の太陽のことです。
そして人は、その見知らぬ太陽に見惚れた瞬間に、閉じこもっていた岩戸から一歩、外へ出る。
そしてMVでは、序盤ずっと背景のスクリーンに映された像でしかなかった太陽が、終盤で実体として舞台の上に現れ、彼らを照らします。

像が先にあり、本物が後から出てくる。
岩戸の前で起きたのと、同じ順序です。
岩戸の前で起きたのと、同じ順序です。
「久遠舞珠」の名に足りない、たった一つの——
そして最後に、もう一度だけ、あの少年の名前を見てください。
久遠舞珠。
舞——岩戸の前で踏み鳴らした、あの女神のもの。
珠——榊に掛けられた、八尺瓊勾玉のもの。
珠——榊に掛けられた、八尺瓊勾玉のもの。
彼の名前は、儀式の道具でできていることが読み取れます。
ただ一つ、鏡を除いて。
ただ一つ、鏡を除いて。
ついでに言えば、その「珠」は彼の眼窩に嵌まっています。
両目に二つ、うち片方は硝子(偽物)。
両目に二つ、うち片方は硝子(偽物)。
そして彼は、久遠という、もう一つの名前にも背いたままです。永遠を名に持ちながら、永遠に価値はないと歌っている。
名前に逆らい続けた男を、私たちはこの舞台にもう一人知っています。名の通りに生きる者になるまで、彼には三幕分の時間が必要でした。
「輝きだけを観せる」と歌いながら、影のすべてを完璧な虚像の奥に隠している少年。
彼がもし、いつか光を失って岩戸を閉じる日が来るのなら。
彼がもし、いつか光を失って岩戸を閉じる日が来るのなら。
彼を引き出すのは、同情でも理屈でもありません。
凄まじい熱狂の舞と、地鳴りのような歓声と——そして、彼自身の光を映して見せる鏡です。
彼の名は、最初から一つ足りません。
そして、その一つが誰なのかを、私たちはもう知っています。
そして、その一つが誰なのかを、私たちはもう知っています。
影片みか。
壊れたものを直すことを特技とし、がらくたを誰よりも愛する、あの左右が反転した眼の少年ほど、鏡の役にふさわしい者を、私は他に知りません。

……そんな物語を、私はこの衣装と名前から、勝手に読み取ってしまいました。すべては幻覚かもしれません。それでも、たった一件のコメントから、記紀の底まで潜ることになるとは思いませんでした。
重厚な物語の続きを、今はただ静かに待ちたいと思います。
長過ぎる考察にお付き合いいただき、ありがとうございました…!!