【考察】Stranger's Sunを考える(改)

【考察】Stranger's Sunを考える(改)

永遠と刹那、太陽が照らす異邦人たちの激突

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現在開催中のメガスフィア・マッチ。
相反する二つのユニット、ValkyrieとMELLOW DEAR US(MDU)が交差する合同楽曲『Stranger's Sun』の全貌が、ついに私たちの前に姿を現しました。
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本編に入る前に、少しだけ私の個人的な告白をお許しください。
実は、この楽曲の断片的な情報から最初に考察を組み立てた際、私の心には微かな「靄(もや)」がかかっていました。
それは、意図せずして​​Valkyrieがシステムに「抗う善」であり、MDUがそれに「染まる悪」​​であるかのような、​​単純な対比構造に囚われてしまっていた​​からです。
しかし、すべての歌詞とMVが公開された今、見えてきたのは、決して善と悪などという陳腐な枠組みではありません。
​どちらも甲乙つけがたいほどの情熱を抱き、それぞれの信じる「正義」と「美学」を真っ向から振りかざして、同じ舞台に立っていた​​のです。
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そして、その激しい魂のぶつかり合いを見下ろすように、彼らの頭上には巨大な「太陽」が照りつけています。
​『Stranger's Sun(見知らぬ太陽 / 異邦の太陽)』——。​
「異邦人(Stranger)」は誰なのか、彼らを灼き尽くそうとする太陽の正体とは一体何なのか。
フランスの作家アルベール・カミュの代表作『異邦人』のモチーフを紐解きながら、​​「永遠(Valkyrie)」と「刹那(MDU)」を等しく照らす「一つの太陽」​​の真実について、踏み込んで考えていきたいと思います。
​ATTENTION​ ※この記事はキャラクターの過去(凄惨なトラウマや死生観)、および文学作品の独自の解釈を含みます。 ダークなテーマが苦手な方はブラウザバックをお願いいたします。

問いと答え——この曲は、最初の四行で完結している

​一体いくつの魂が 生まれて消えた 名も無き侭​
​熱狂だけが火を灯した 歓声こそ人生さ​
​Everybody wants a dream.​
まず、曲の冒頭をご覧ください。この楽曲のすべては、ここに既に語られていると言っても過言ではありません。
みかが問います。​​いったいいくつの魂が​​、と。
宗が引き取ります。​​産まれて消えた?​
そしてValkyrieの二人が、声を揃えて言い切ります。
​名も無き侭​​、と。
無数に生まれ、名を遺すこともなく消えていった魂たち。
歴史に埋もれた無名の表現者たちへの、これは鎮魂であり、同時に忘却と消費に対する根源的な恐れであると思います。
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その問いに、舞珠が答えます。
​熱狂だけが火を灯した。​
続けてジュイスが断言します。​​歓声こそ人生さ​​、と。
……お気づきでしょうか。​​Valkyrieの問いに、MDUが答えている​​のです。
しかも、この応答がこの二者の対比を明確なものにしています。
valkyrieの問いに対し「理屈ではなく、今の熱量がすべてを証明する」と応じ、「どうすれば後世に遺せるか」などと頭で考えるよりも​​「熱狂」や「歓声」という目の前の事実(結果)こそが人生の証​​であるとMDUは返しています。
​出会って四行で、二つの魂は既に真っ向から決裂​​しているのです。
……冒頭からひりつくような応酬ですが、曲の終盤、この「刹那」と「永遠」の衝突はもう一度、今度は剥き出しの刃として反復されることになります。

『異邦人』の太陽、誰も憎まず、誰も守らない光

ここで一度『Stranger's Sun(見知らぬ太陽 / 異邦の太陽)』を紐解くにあたり、もう一つの重要な要素である、​​カミュの『異邦人』において「太陽」がどのような存在であったか​​をお話しさせてください。
​【『異邦人』ストーリー概略】​
(※本作は世界的名著ゆえに、多種多様な解釈が存在します。ここでは唯一の正解としてではなく、今回の楽曲考察の軸となる「ひとつの側面」として抽出してご紹介します)
​主人公・ムルソーは、母の葬儀で涙一つこぼさなかった青年です。​
​ただし彼は、社会に反抗するために泣かなかったのではありません。​​心にもない感情を演じるという発想を、そもそも持てなかった​​のです。​
​彼は嘘を拒んだのではなく、嘘をつけなかった。​
​そのため彼は、母親の葬儀で涙一つこぼさず、世間が求める「悲しみ」の態度を一切見せませんでした。​
​そして後日、太陽がじりじりと照りつける海辺で、ふとした諍い(いさかい)に巻き込まれ、衝動的にアラビア人を射殺してしまいます。​
​裁判で殺人の動機を問われた彼は、ただ​​「太陽が眩しかったから」​​と答えました。​
​しかし法廷で最も糾弾されたのは、​​殺人そのものよりも「母の葬儀で涙を流さなかった冷酷さ」​​でした。​
​後に彼は、ルールを乱す怪物(=異邦人)として死刑​​を宣告されます。​
ここで重要なのは、原作においてムルソーを狂わせた「太陽」が、​​誰の味方でもない​​ということです。
太陽は彼を憎んでいません。罰してもいません。
ただ、等しく圧倒的な熱を降り注いでいるだけです。
しかし、その無関心な熱こそが人の思考を焼き切り、結果として一人の青年を破滅へと導きました。
物語の最後、独房でムルソーが受け入れるのは​​「世界の優しい無関心」​​でした。
あれほど彼を狂わせた太陽と、実は全く同じものです。
誰も特別扱いしない、完全な無関心。
それを「自分を消費し、搾取する敵」とみなせば人を狂わせる炎になり、ただそこにあるものとして受け入れれば、自らの存在を肯定する幸福の根拠になる。
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これは、今回のトーナメントにおける​​「大衆(システム)」​​そのものです。
大衆の眼差しは束になってただの「システム」になり、永遠を掲げるValkyrieの味方も、刹那を生きるMDUの味方もしません。
どちらの思想が正しいかなどという判定には一切興味がなく、「ナイス!」という出力を通じて、ただ無責任な熱狂(熱)を浴びせかけてくるだけです。
しかし、​​太陽(システム)が完全に無関心だからこそ、相反する二つの魂は「同じ一つの太陽」の下で、対等に命を燃やし合うことができるのです。​
誰も特別扱いしない残酷な世界だからこそ、彼らは自分たちの「永遠」と「刹那」の純度のみを武器にして、このひとつの舞台を共有できているのではないでしょうか。
​——では、この残酷なまでに無関心な光を全身に浴びながら、彼らはどうやって己の存在を証明しようとしているのか。​
ここからは、MDUの「刹那」とValkyrieの「永遠」——両者が提示する、全く異なる二つの在り方について考えていきたいと思います。

MELLOW DEAR US ——輝き「だけ」を観せる者たち

​今日を生きることの悦びを謳おう​
​輝きだけ観せるべきさ​
​永遠なんて今に価値を生みやしないさ​
​一瞬しかない生命を燃やせ​
MDUの歌詞には、徹底して「光」と「今(刹那)」しか描かれていません。​
​『後悔も、絶望も、ここにはないのさ』​​と望見とチトセは笑います。
しかし、私たちは知っています。
彼らがそれぞれに、過去やトラウマ、そして現在進行形の破滅の影を、足元に引きずっていることを。
影が歌詞に一度も現れないこと、そして「輝き​​だけ​​」という、たった二文字の限定。これこそが、逆説的に彼らの隠された闇の深さを証明しています。​
​書かれなかったものは、消えたのではなく、隠されたのです。​
ここで思い出していただきたいのが、先ほどのムルソーです。
彼は演じることが​​できなかった​​人間でした。
ならばMDUは、その完全な対極にいます。
彼らは​​演じ切れてしまった。​
​**​​痛みや苦しみを一切ステージに持ち込まず、完璧な虚像として、灼きつくような光を浴びて、大衆が望む輝かしい夢を提供し続けているのです。
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大衆を熱狂の渦に巻き込むMDU。しかし、みかによってある疑問符が投げかけられます。​
​『誰もが望むものだけが理想か?』​​と。
これはMDUの表現哲学の根幹に刃を突きつける問いです。
対して、舞珠、ジュイス、望見、チトセがワンフレーズずつ紡ぎ、その問いに答えます。
​Nobody knows "the truth", so eyes show "the worth".​
​Everybody wants a dream, that's the meaning of "our prime".​
(誰も真実などわからない。だから眼差しが価値を生む。
皆が『夢』を求めている。その一瞬の夢を魅せることこそが、僕たちの最高の輝き(存在価値)だ。)
​Feel the stream in our music.​
(僕たちの音楽が巻き起こす、この奔流(うねり)に身を委ねて。)
それはまるで、MDUが自分たちの周りに張り巡らせた、分厚く冷たいガラスのショーケース。
問いかける声は、間違いなく彼らに届いています。ガラス越しに視線は交わり、その問いの鋭さも痛いほど理解しているはずです。
届いているのに——決して、その内側へと通ることはないのです。
どれほど真摯な問いを投げかけても、彼らは「だって『​​誰も皆、望んでるよ​​』?」と美しい微笑みでひらりとかわして、大衆が求める完璧な虚像(夢)のなかに身を置き続ける。
対話を諦めているわけではなく、自らそのショーケースのなかに在ることを選んだ「覚悟」と、だからこそ決して交わることのできない断絶の残酷さに、どうしようもない切なさを感じずにはいられません。
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​しかし、彼らは決して悲哀に満ちた犠牲者ではありません。​
その断絶の切なさを華麗に笑い飛ばすかのように、舞珠はこう歌い切ります。
​『道化としても構やしないさ​​』と。
自らが大衆(システム)に消費される存在であることを、彼らは誰よりも冷徹に理解しています。
その上で、あえてその太陽の熱を全身で浴び、一瞬しかない生命を限界まで燃やし尽くして、目の前の熱狂を創り出す。
​Playin' for grand show.​
(すべては、この極上の見世物(ショー)のために。)
刹那に身を投じる彼らなりの、凄まじいプロ意識と、アイドルとしての誇り高き矜持なのです。

Valkyrie——朽ちる身から、永遠を遺す者たち

​そう我身が軈て 朽ちて滅ほろびようと
価値を求む者へ遺そう​
一方で、Valkyrieが見据えているのは『今』ではありません。
かつて、『革命』と称した大衆の無責任な熱狂によって一度『死』を経験している彼らは、肉体の限界も、今この瞬間の消費システムも、とうの昔に超越しています。
死は、彼らにとって恐怖ではありません。
作品が作者の手を離れ、永遠になるための​​通過点​​にすぎない。
だからこそ宗は言い切れるのです。​​『千年先へ宝石を届けよう』​​、と。
(余談ですが、この『宝石』は曲の冒頭でジュイスとの掛け合いの中で既に語られていました。宗はそこで、幾星霜を刻み、​​宝石足る希望​​を磨こうと宣言しています。 今この瞬間にはまだ、光り輝くことのできない原石だとしても。)
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……そしてここが、私が前回の考察で完全に読み違えていた点です。
​刮目せよ 絶え間なく燃ゆる太陽​
​消えていく地上の炎を憐むか?​
​そう、Valkyrieは太陽と戦っていないのです。​
宗はこう歌います。​​『刮目せよ 絶え間なく燃ゆる太陽​​』と。
目を逸らせ、ではありません。打ち堕とせ、でもありません。​
​目を開き、そして見据えろ​​、です。
そしてValkyrieはこう続けます——​​『太陽に照らされ乱反射する光』​​。
拒絶でも、屈服でもない。降り注ぐ光を全身で受け止め、己という結晶を通して、誰も見たことのない角度へ輝きを撒き散らす。
つまり、​​戦うのではなく受け止め、​自らを通して煌めきへと変える​​。
これが、一度殺された者たちが辿り着いた、太陽との第三の関係なのではないでしょうか。
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さてここで、​​冒頭の「問いと答え」​​を覚えていらっしゃるでしょうか…?
序盤で「刹那と永遠」を歌ったあの応酬がもう一度、二組のリーダーが掛け合う形で反復されます。
​共感という享楽が幸福なら​
​告、創造こそ啓蒙と知るだろう。刻印する鳴動、幾星霜。
磨こう、宝石足る希望。​
ここで注目したいのは、彼らが歌うフレーズの「構造」にあります。
まず、ジュイスが歌い上げます。​​『共感という享楽が幸福なら』​
大衆がアイドルに求める「わかる!」という安い共感や、それを消費して楽しむ一時的な享楽。
もしそれが、この残酷な世界における大衆の「幸福」であると言うならば——。
ジュイスがそう条件節を投げた、まさにその直後。
本来なら続くはずの帰結節(「〜してあげよう」「〜だろう」)の位置に入ってくるのは、MDUの誰でもなく、​​宗の言葉​​なのです。
『​​告、創造こそ啓蒙と知るだろう。​ ​刻印する鳴動、幾星霜。磨こう、宝石足たる希望。』​
大衆の欲望に迎合するのではなく、至高の芸術をもって彼らを導くことこそが真の幸福なのだ、と。
MDUが立てた「もし〜ならば」の答えを、Valkyrieが横から奪い取って叩き潰す、凄まじい構図になっています。
さらに続く「幾星霜(いくせいそう)」とは、途方もなく長い年月のこと。
​MDUが今この一瞬の輝きに身を投じるのに対し、Valkyrieは長い時を超えて歴史に「刻印」される永遠の芸術を掲げる、対比構造になっているのです。​
彼らは、決して互いの主張を無視して自分たちの歌を歌っているわけではありません。
​相手の思想をはっきりと聴き届けた上で、一歩も譲らないのです。​
言葉を奪い、思想をぶつけ合い、ひとつの舞台上で決して交わることのない火花を散らす。
それこそが、この『Stranger's Sun』という楽曲全体に流れる、ヒリヒリとするような緊迫した美しさの正体なのだと私は思います。
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同じ器に、正反対の思想を注ぎ迎えるクライマックス

​This is the light. This is the flame.​
​This is our pride. This is our beauty.​
​This is the prism. This is the brightness.​
​This is the rhythm. This is the melody.​
​Even if all are strangers, sun is one.​
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この楽曲で最も印象的なリフレイン。
ここで彼らに割り当てられている英単語を注意深く見ていくと、見事なまでの対比が浮かび上がってきます。
MDU側が歌うのは、​​「light(光)」「flame(炎)」「rhythm(リズム)」「melody(メロディ)」​​。
外から降り注ぐ熱と、形を持たずその場で消えゆく「刹那」の芸術を表す言葉です。
対するValkyrie側が歌うのは、​​「pride(誇り)」「beauty(美)」「prism(プリズム)」「brightness(輝き)」​​。
こちらは、確固たる内的な価値と、決して崩れない「永遠」の輝きを表す語彙で構築されています。
とりわけ、Valkyrieが自らを喩えた「prism(プリズム)」という言葉に注目すると、ある残酷で美しい事実が浮かび上がります。
プリズムというガラス体は、自ら発光することはありません。
​外から入ってきた光を受け止め、己の内で屈折させ、美しく分光して返すための装置​​です。
これはまさに「太陽(大衆の熱狂)に晒されながらも、それを乱反射させて永遠の芸術を創り出す」という彼らのスタンスと寸分の狂いもなく一致しています。
大衆の無関心な熱を、至高の美へと変換してのけるのがValkyrieなのです。
そして楽曲は、この正反対の二組が同時に声を重ねる、あの一節へと雪崩れ込みます。
​永遠の残照​​(Valkyrie) × ​Playin' for grand show.​​(MDU)
「残照」とは、太陽が沈み、光源が失われた後もなお空に残り続ける光のこと。
いつか必ず終わりが来る世界で、光源(大衆・時代)が失われてなお残り続ける「永遠」を歌うValkyrie。
それに重なるのは、今この瞬間の極上のショーに全てを懸け、燃え尽きる「刹那」を歌うMDU。
​光源が消えた後の時間(永遠)と、今ここにある熱狂(瞬間)。​
決して交わることのない二つの時間が、同じ「無関心な太陽」の下で、ひとつの和音として重なり合う。
この瞬間、私たちの心はどうしようもなく打ち震えるような感動に包まれるのです。

MVの中で可視化する「一つの太陽」

歌詞が描き出したこの対極的なスタンスは、映像における「光と影」の演出によって、さらに強調され、可視化されていました。
映像の中で、MDUの​​舞珠​は白っぽく眩しい光の中に身を置き、眩しそうに目を細めながらも、その輝く瞳で真っ直ぐに天を見上げています​​。
大衆の喝采という強烈な外からの光から決して逃げず、真正面から全身で浴びて輝く姿そのものです。
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対してValkyrieの​​みか​​は、​​光の当たらない赤黒い暗がりの中で、まるで猫のようにその両眼だけを妖しくきらりと光らせています​​。
ここで一つ、確認しておきたいことがあります。​​暗闇で眼が光るということは、そこに光が届いているということです。​
みかの瞳は、独りでに輝いているのではありません。
真昼の光に迎合こそしないものの、届いてきた光を確かに捉え、返している。
プリズムであり、太陽に照らされ乱反射した光です。​​闇の中でなお光を受け取ってしまう眼​​——そう考えると、あの一瞬の煌めきは、一層静かな美しさを湛えています。
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​外の光に灼かれて輝く者(MDU・舞珠)と、暗闇でなお光を返す者(Valkyrie・みか)。​
この視覚的なコントラストは、歌詞の対極さも相まって、両者の在り方の違いを完璧に表現しています。
———そして、この映像演出において最も決定的なもの。
ラストカットで画面をゆらりと揺らす、​​蜃気楼​​です。
蜃気楼とは、地表の空気が熱に耐えかねて歪むとき、そこにないはずのものを見せる現象のこと。
​光の中の舞珠。闇の中のみか。​
​立つ場所も、生き方も、見ている時間さえ違う二人。​
その両者の前を、同じ揺らぎが横切っていきます。
つまり、彼らは同じ熱の中にいるのです。​​空気を歪ませるほどの、異常な熱の中に。​
​Even if all are strangers, sun is one.​
光と影に分かたれてなお、彼らを灼いているものが一つであることの——これ以上ない証明です。
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【あとがき】完成された思想の激突——アイドルという「器」を巡る衝突

最後に一つだけ、個人的な視点からの追記をお許しください。
今回の『Stranger's Sun』では、主に舞珠とみかをメインとした、キャラクターたちの秘密や深層が、まさに今この舞台で明かされようとしています。
彼らの物語が現在進行形で語られているからこそ、この楽曲の根底に流れる「永遠と刹那」の最深部を牽引しているのは、すでに己の思想を確立させている両ユニットのリーダー、宗とジュイスの存在です。
特にジュイスは、以前の物語において、プロデューサーであり従兄弟でもある「ナイスP」との過去が既に克明に描かれています。
心から愛していた「アイドル(ナイスP)」の座を、実家の思惑により、自らの手で奪い、消し去らなければならなかったという取り返しのつかない罪悪感。
だからこそ、ジュイスは奪い取ったその座にいる自分自身と、「アイドル」という存在そのものを激しく憎悪し、軽蔑しています。
彼にとってのアイドルとは、「有象無象の大衆に無責任な熱狂を向けられ、中身など見られずにただ消費されていく、空っぽで無価値なもの」でなければならない。
本物の輝きを奪った自分を持て囃すアイドルというシステム全体を見下し、嘲笑し、同時に消費される自分自身を罰し続けているかのようです。
だからこそ、彼は歓声や熱狂(狂躁)という「刹那の嵐」の中へ、破滅的に身を投じることができるのです。
一方で、かつてその大衆の無責任な熱狂によって一度地獄を見た宗は、「アイドルという枠組みすらも、至高の芸術を出力するための媒体(キャンバス)にすぎない」という境地に到達しています。
彼にとってのアイドルとは、死後もなお輝き続ける永遠の美を後世へ遺すための「誇り高き器」です。
大衆に消費されるための無価値なものか、それとも、永遠の芸術を宿し得るものか。
すでに自己の哲学を完成させているこの二人が真っ向からぶつかり合ったとき、そこに生まれるのは単なる勝敗ではありません。
「アイドルなんて消費されるだけのものだ」と軽蔑することで自分を罰してきたジュイスの目の前に、「大衆がどれほど消費しようと(どれだけ過酷な太陽に灼かれようと)、決して灼き尽くされることのない永遠の芸術」をアイドルという器で体現する宗が、Valkyrieが現れる。
もちろん、彼が抱える深い呪いがこの一度の戦いで解けるようなことはないでしょう。
しかし、決して交わらないはずの二つの魂が同じ熱の中でぶつかり合ったとき、Valkyrieの描く「永遠」は、ジュイスの目にどう映るのでしょうか。
それは、彼が固く信じ込んできた「無価値なシステム」の根底に静かな揺らぎをもたらし、微かな「光の予感」になり得るのかもしれません。
この過酷な泥沼の戦いの果てに、彼らの魂にそんな小さな変化の兆しが訪れることを、今はただ静かに祈っていたいと思います。