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現在開催中のトーナメント戦において、相反する二つのユニット、ValkyrieとMELLOW DEAR US(MDU)が交わる合同楽曲『Stranger's Sun』。
現在開催中のトーナメント戦において、相反する二つのユニット、ValkyrieとMELLOW DEAR US(MDU)が交わる合同楽曲『Stranger's Sun』。
本日はこの楽曲のタイトルと、一部公開された音源の歌詞から読み解けるテーマについて、SNSでその関連性が話題となっている、フランスの作家アルベール・カミュの代表作『異邦人』のモチーフを交えながら、少し深く、暗い領域まで踏み込んだ考察を書きたいと思います。
ATTENTION
※この記事はキャラクターの過去(凄惨なトラウマや死生観)、および文学作品の独自の解釈を含みます。
ダークなテーマが苦手な方はブラウザバックをお願いいたします。
『異邦人』の哲学——同調圧力に屈するくらいなら「死」を選ぶことは悪か?
『Stranger's Sun(見知らぬ太陽 / 異邦の太陽)』というタイトルを紐解くにあたり、カミュの『異邦人』がどのような物語なのかを少しだけお話しさせてください。
【『異邦人』ストーリー概略】主人公・ムルソーは、自分の本当の感情に嘘をつく(心にもない演技をする)ことができない青年です。
そのため彼は、母親の葬儀で涙一つこぼさず、世間が求める「悲しみ」の態度を一切見せませんでした。
そして後日、太陽がじりじりと照りつける海辺で、ふとした諍い(いさかい)に巻き込まれ、衝動的にアラビア人を射殺してしまいます。裁判で殺人の動機を問われた彼は、ただ「太陽が眩しかったから」と答えました。
しかし法廷で最も糾弾されたのは、殺人そのものよりも「母の葬儀で涙を流さなかった冷酷さ」でした。
心にもない感情を演じて社会に迎合することを拒んだ彼は、ルールを乱す怪物(=異邦人)として死刑を宣告されます。
社会は「ここではこう振る舞うべきだ」という暗黙の同調圧力で成り立っています。
しかしムルソーは、嘘の感情を演じて生き延びるくらいなら、「死」を受け入れることを選びました。
彼にとって死は忌避すべき絶望ではなく、魂の自由と真実を守り抜くための究極の解放だったのです。
しかしムルソーは、嘘の感情を演じて生き延びるくらいなら、「死」を受け入れることを選びました。
彼にとって死は忌避すべき絶望ではなく、魂の自由と真実を守り抜くための究極の解放だったのです。

この『異邦人』が突きつける「自分を偽って生き延びるくらいなら、死(破滅)を選ぶことは果たして『悪』なのか?」という重い問い。
これを現在のメガスフィアにおけるValkyrieとMDUの対立構造に当てはめた時、恐ろしいほどの符合が見えてきます。
一度「死んで蘇った」芸術——異邦人としてのValkyrie
Valkyrieを率いる斎宮宗は、かつて五奇人として夢ノ咲学院に君臨しながらも、天祥院英智の革命によって自我を崩壊させられ、活動休止に追い込まれました。
それはアイドルとして、そして芸術家としての文字通りの「死(殺された経験)」です。
それはアイドルとして、そして芸術家としての文字通りの「死(殺された経験)」です。

しかし、一度死の淵に落ちた彼は、影片みかの献身的な支え(無償の愛)によって墓底から蘇りました。
一度死を受け入れ、そこから這い上がった彼らは、現世の同調圧力や「ナイス!」を求めるシステムから完全に一線を引いています。
大衆の評価に媚びず、己の芸術を磨き続ける彼らは、大衆の求める感情や流行を演じないという点で、メガスフィアにおける真の「異邦人(ストレンジャー)」なのです。
一度死を受け入れ、そこから這い上がった彼らは、現世の同調圧力や「ナイス!」を求めるシステムから完全に一線を引いています。
大衆の評価に媚びず、己の芸術を磨き続ける彼らは、大衆の求める感情や流行を演じないという点で、メガスフィアにおける真の「異邦人(ストレンジャー)」なのです。
メガスフィア編のストーリー内で、宗は「ナイス!」至上主義の世界に対し、こう吐き捨てています。
「ふん、また『ナイス!!』かね。つくづくこの評価基準には嫌気が差すのだよ。かつて僕たち『Valkyrie』 を奈落の底へと落としたあの悪夢を、再び味わわせようとでもいうのか……。実に不愉快だ」
かつて自分たちを殺した大衆の熱狂(同調圧力)への明確な嫌悪。
さらに宗は、みかが抱いている怒りについても言及しています。
さらに宗は、みかが抱いている怒りについても言及しています。
「影片は先ほどこう言ったね。……『ナイス!』 に支配されたこの世界の“正しさ”によって、小娘や大切なひとたちが変えられてしまうのが許せないと」
「ナイス!」というシステムが、人の在り方を歪めてしまうことへの激しい憤り。
これらの言葉からも分かる通り、彼らは同調圧力という不条理に対して、真っ向から牙を剥く存在としてこのトーナメントに立っているのです。
これらの言葉からも分かる通り、彼らは同調圧力という不条理に対して、真っ向から牙を剥く存在としてこのトーナメントに立っているのです。
「死と殺意」を抱えたまま、太陽に灼かれるMDU
一方で、MDUの4人はどうでしょうか。
彼らは今まさに、現在進行形で「死」と「殺意(加害)」の淵を彷徨っています。
彼らは今まさに、現在進行形で「死」と「殺意(加害)」の淵を彷徨っています。
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望見: 『ハムレット』(生きるべきか死ぬべきか…等のセリフ)や『オセロ』を引用し、文字通り悲劇を自らの手で「殺す」ことでしか笑えないという狂気。
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チトセ: 「自殺未遂」という、最も直接的な自己への殺意(死の選択)。
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ジュイス: 誰よりもアイドルを愛するナイスPの居場所を奪い、実質的に彼を「殺して」その座に君臨しているという凄まじい自責と加害性。
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舞珠: 幼少期からの度重なる凄惨な事故(死の淵)、そして現在進行形で行われているDM耐久テストという「アイドルとしての死」への綱渡り。

彼らはこれらの致命的な傷を抱えながらも、分厚いガラスでできたショーケースの中で「完璧なアイドル」として微笑み、大量の「ナイス!」を呼び込んでいます。
大衆の求める感情を完璧にシミュレートし、同調圧力という不条理なシステムに「完璧に染まり切る」道を選んでいるのです。
大衆の求める感情を完璧にシミュレートし、同調圧力という不条理なシステムに「完璧に染まり切る」道を選んでいるのです。
しかし、周囲が求める完璧なアイドルとして振る舞えば振る舞うほどに、彼らを照らす大衆の太陽(Flame)はより暴力的なくらいに強く、それに反比例して、彼らの足元に落ちる、それぞれが抱えた「狂気と死(Demise)」の影はより一層濃く、漆黒へと沈んでいきます。
極限の光の中で、己の影という狂気に呑み込まれそうになりながら完璧なショーを演じ続ける。
それこそが、彼らが自ら選んだ「異邦の太陽」の下での生き方なのだと考えます。
それこそが、彼らが自ら選んだ「異邦の太陽」の下での生き方なのだと考えます。
対をなす歌詞に隠された真意——「死(終焉)」と「反抗」
この両者の決定的なスタンスの違いは、一部公開されている楽曲のフレーズ(※聴き取りからの推測を含みます)にも表れています。
同じメロディに乗せて、二つの対極的な言葉が歌い上げられている箇所があります。
同じメロディに乗せて、二つの対極的な言葉が歌い上げられている箇所があります。
This is the demise, this is the flame
(これが死<終焉>だ、これが業火だ)
This is the fight, this is the fury
(これは戦いだ、これは憤怒だ)
この対比は、あまりにも残酷です。

■ MDUパート(と推測)【Demise(死)とFlame(業火)】
ここで注目したいのは、「Stranger's Sun(異邦の太陽)」という曲名でありながら、彼らが歌詞の中で「Sun(太陽)」ではなく、あえて「Flame(炎)」という言葉を使い、それを「Demise(死)」と結びつけている点です。
これには深い理由があると考えています。
ここで注目したいのは、「Stranger's Sun(異邦の太陽)」という曲名でありながら、彼らが歌詞の中で「Sun(太陽)」ではなく、あえて「Flame(炎)」という言葉を使い、それを「Demise(死)」と結びつけている点です。
これには深い理由があると考えています。
原作『異邦人』のクライマックス、主人公が殺人を犯してしまう直前。
彼を狂わせた強烈な太陽は、単なる光ではなく、次のように描写されていました。
彼を狂わせた強烈な太陽は、単なる光ではなく、次のように描写されていました。
“空は全体にわたってぱっくりと口をあけ、そこから火の雨が降ってくるように私には思われた” (「異邦人」)
つまり原作の主人公は、暴力的な「太陽の炎(火の雨)」に狂わされ、その結果として「死刑(死)」へと向かっていくのです。
大衆の「ナイス!」という暴力的で熱すぎる太陽(Flame)に灼かれながら、自らを完璧な虚像として消費させ、破滅(Demise)へと向かっていくMDU。
単に「Sun」と歌うのではなく、あえて「Flame」を選び「Demise」と結びつける歌詞は、彼らの危うい姿を、原作の狂気のシーンに完璧に重ね合わせた見事なオマージュと言えるでしょう。
単に「Sun」と歌うのではなく、あえて「Flame」を選び「Demise」と結びつける歌詞は、彼らの危うい姿を、原作の狂気のシーンに完璧に重ね合わせた見事なオマージュと言えるでしょう。
■ Valkyrieパート(と推測)【Fight(戦い)とFury(憤怒)】
一方で、自らを太陽の炎に差し出して破滅へ向かうMDUとは対極にいるのが、Valkyrieです。
一方で、自らを太陽の炎に差し出して破滅へ向かうMDUとは対極にいるのが、Valkyrieです。
かつて一度、彼らは「革命」とそれに追従した大衆の無責任な熱狂によって殺され、暗闇の底から蘇った経験を持ちます。
だからこそ彼らは、二度と大衆の求める「正しさ」や嘘の感情に迎合することはありません。
だからこそ彼らは、二度と大衆の求める「正しさ」や嘘の感情に迎合することはありません。
先ほどの宗の言葉にもあった通り、彼らの原動力は、嘘の感情を強要し、人を変質させてしまう同調圧力に対する気高い「憤怒(Fury)」です。
『異邦人』の主人公が、心にもない嘘を演じて社会に許されるくらいなら、真実を守って死ぬことを選んだように。
Valkyrieもまた、「ナイス!」という評価基準に染まって魂を売るくらいなら、絶対的な「異邦人」として「戦う(Fight)」道を選んでいます。
『異邦人』の主人公が、心にもない嘘を演じて社会に許されるくらいなら、真実を守って死ぬことを選んだように。
Valkyrieもまた、「ナイス!」という評価基準に染まって魂を売るくらいなら、絶対的な「異邦人」として「戦う(Fight)」道を選んでいます。
MDUにとってのステージが、太陽(大衆の同調圧力)に灼かれるための場所であるならば。Valkyrieにとってのステージは、その不条理な太陽そのものを芸術の力で打ち堕とすための、気高き戦場なのです。
結びに代えて——私たちは「誰」なのか
「ナイス!」という大衆の太陽(Flame)に灼かれながら、自分を偽って完璧なアイドルのまま死(Demise)へ向かうMDU。
圧倒的な太陽の下でも決して迎合せず、怒り(Fury)と共に本物の芸術のために戦う(Fight)Valkyrie。
圧倒的な太陽の下でも決して迎合せず、怒り(Fury)と共に本物の芸術のために戦う(Fight)Valkyrie。
この合同楽曲、そしてイベントストーリーが私たちに突きつけるのは、単なる勝敗ではありません。
全く正反対の「異邦人」同士が激突するステージで、眩しすぎる光に理性を焼き切られ、死と再生の果てに彼らは何を見出すのか。
全く正反対の「異邦人」同士が激突するステージで、眩しすぎる光に理性を焼き切られ、死と再生の果てに彼らは何を見出すのか。
そして、彼らを焼き尽くそうとしている「異邦の太陽(同調圧力)」の正体。 それは画面の向こう側から、無自覚に「ナイス!」を送り続けている、私たち自身の熱狂なのかもしれません。
私たちはこの美しい狂気と戦いの結末を、どのような顔をして見届ければよいのでしょうか。 重厚な物語の幕開けを、今はただ静かに待ちたいと思います。